明治以降になると洋紙の輸入とその国産化が始まりました。
その影響は既存の漉き屋にも及び、洋紙に対しての「和紙」という言葉が生まれるとともに、多くの需要が和紙から洋紙に移行していきました。
小川町でも大量に生産される洋紙に対抗するために粗製乱造が目立つようになりました。和紙生産者の一部はこの事態を重く見て「製紙申合規則」を作成、粗悪品の製造を自ら正すようにし、この流れから明治26年には「小川和紙改良組合」が創設されました。
しかし、この組合は任意参加であり、商人組合員が上位に立つ構造だったため、明治34年、近隣の村々の製紙業者を強制加入させ、会員数900名を超える、現在の小川和紙工業協同組合の前身となる「小川製紙同業組合」が新たに設立されました。
この頃から昭和初期にかけて、生産性を重視した道具の大型化(細川一ツ判から二ツ判、四ツ判、四ツ判2枚取り)と、打解機
、乾燥機、ビーターの導入による、紙すきの工業化・機械化が進みました。
そして、大正初期、小川町周辺では漉き屋が1000軒を超える一大隆盛期を迎えました。 |