古代から中世にかけての小川和紙の歴史を知ることが出来る具体的な資料もまた、見つかっていません。
小川和紙の実情について知ることができる資料が残されているのは慶安年間(1648年〜52年)以降で、この頃には、人口100万人を超えたとも言われる江戸に、最も近い和紙の産地として多くの小川和紙が消費されたと考えられています。
また、この時代の資料の多くは漉き屋と問屋の商取引記録であり、商売として小川和紙が発達していたことが伺えます。 これは他の和紙の産地の紙すきが藩の保護の下で発達したと言われることと比較し、民業として成熟して行った小川和紙という特徴の表れとも言えます。
その結果、江戸で発生する突発的な需要に対応するために全国各地の紙を模倣し、幅広い銘柄の紙を漉けるという小川和紙の特徴もこの頃に確立されたとも言われています。
一方で江戸時代も後半になると漉き屋と問屋との間で度々訴訟問題も起こっています。
江戸の紙問屋が組合を結成し、江戸で使用される和紙の直接販売を禁止し、価格も江戸の問屋によって決められるという状態になったことで、現在の小川町を含む周辺3郡の漉き屋が文化14年(1817年)から30年以上にわたり訴訟を展開しました。 |