手すき和紙製造・販売 「紙すきの村」は細川紙はじめ 創作活動の素材としての和紙を 製造・販売しています。


トップページ会社概要和紙づくりに対する方針特定商取引法に基づく表示お問い合わせアクセスリンクサイトマップ

紙すきの村について
■本工房
■ギャラリー

■有機野菜販売所

■イベント情報
和紙作りを見学する
■一般の方へ

■団体の方へ

■社会科見学
■アーティスト・
  デザイナー向け
和紙作りを体験する
■一般体験
■一日体験
和紙を購入する
■直営売店
■レンタルスペース
■製品製造情報
和紙について
■和紙のできるまで
■小川和紙の歴史
■細川紙について
■コラム
■資料
和紙を使う
■和紙を使った展示会
■和紙施工例
 
■オンラインショップ
 
■海外からのお客様へ
- tour information -
 
■小川和紙活性化委員会
  コラム5 戦争と和紙 〜風船爆弾の話〜
 
1、風船爆弾とは
  <名称>
「風船爆弾」とは後世になってマスコミがつけたもので、戦時下は「フ号兵器」、あるいは「マルフ」と呼ばれていた。

<概要> 
 直径:約10メートル
 浮力:水素ガス
 搭載:爆弾4個/焼夷弾1個/高度調整用土嚢(2.7s)30個
     もしくは焼夷弾(2kg)2個/爆弾15s
     (搭載兵器については諸説あり)

<製造および打ち上げ>
太平洋戦争末期、昭和19年11月から翌年3月にかけて約9000発が打ち上げられた。主な打ち上げ基地は千葉県一ノ宮、茨城県大津、福島県勿来。

<推進力>
先述の通り、気球には浮力に水素ガスを用いているが、それ自体に推進装置は無かった。にもかかわらず日本から太平洋を横断し、アメリカ本土を爆撃することができたのは太平洋上空8〜13q付近を流れる「ジェット気流」によるものであった。日本は欧米に先立ち、この「ジェット気流」を発見、学術的に解明しており、これにより世界 初の大陸弾道弾ともいえる風船爆弾を計画した。

<戦果>
打ち上げられた気球のうちの1割程度(1000発)がアメリカ本土に到達したとされる。人的被害はオレゴン州において6名の死亡が確認されている。これは第2次大戦における「アメリカ本土」での唯一の死亡例であり、 アメリカ史において初めての空爆被害でもある。
 

2、気球紙と小川和紙
   日本軍より小川町に風船爆弾用気球紙(以下気球紙と呼ぶ)試作の命令が下されたのは昭和8年ごろと言われ、東京の問屋から小川町の問屋を介し、下小川地区の紙屋がその試作にあたった。
 当初は作られた紙が気球紙となることは伏せられ、特注判(約6尺3寸四方の紙と約2尺2寸四方)の薄くて丈夫な紙を作るよう支持されたという。

 気球紙の試作成功には数ヶ月を要したが、これが兵器として実用化されたのはさらに数年後のことであった。太平洋戦争末期、戦況の悪化によりアメリカ本土への直接攻撃の手段として風船爆弾が採用されたのだった。昭和18年5月のことだった。

 こうして、大量の気球紙の生産命令が下された小川町では、下小川地区を中心にその生産が始まった。この下小川地区は他地区に比べ養蚕業を行わない専業の紙屋が多くあったことが気球紙の一大生産地区になったとも言われている。

 1つの気球(直径約10m)は、約6尺3寸四方の紙と約2尺2寸四方の薄紙、計600枚を張り合わせて作られる。そのため、当時の1日の生産 ノルマは500枚にも達したと言われ、このノルマを消化するため家族総出、さ らには近所に紙すき奉公する形で作業に追われた。この1日500と言う数字は気球紙生産が始まる前の約2倍であり、気球紙生産がいかに重労働だったかが伺える。
 

3、気球紙から風船爆弾へ
   出来上がった気球紙はまず小川町内および近隣町村の工場において5層に張り合わされた。張り合わせには柿渋を混ぜたこんにゃく糊が用いられ、乾燥後、その上からさらに苛性ソーダ液を塗ることで強度を増した。この作業は工場周辺の女性たち(各工場で約20〜30名)により行われ、その労働により指紋が消える女性もいたと言う。

 こうして張り合わされた紙は、さらに広い敷地において気球の形にされた。小川町周辺にこの作業ができるだけの施設はなく、日本劇場(現マリオン)や旧両国国技館などの広い施設で行われた。

 こうして出来上がった気球は、千葉県一ノ宮、茨城県大津、福島県勿来の各打ち上げ基地へと向かい、アメリカ本土へと打ち上げられた。
 

4、風船爆弾の影響
   かくして約9000発の風船爆弾が打ち上げられたが、実際にアメリカ本土に到達したのはそのうちの1割程度の約1000発と言われており、人的被害は6名に留まった。

 しかし、アメリカにとっては、風船爆弾の推進動力(ジェット気流)、和紙の接合(こんにゃく糊)が解明できなかったこと、さらに風船爆弾による生物兵器攻撃の可能性を憂慮した。また人的以外の被害(建物、送電線)の中にプルトニウム製造工場に影響を与えたものもあったことから、風船爆弾はいわゆる神風特攻隊とともに原発早期投下論に拍車をかけたとの説もある。 
 

5、風船爆弾だけではない戦争と小川和紙
   ここまでは風船爆弾について紹介したが、戦争において和紙が利用されたのは気球紙だけではなかった。

<砲兵紙> 

 気球紙と並び盛んに製造されたのが砲兵紙と言われる火薬の包み紙であった。これは砲弾の中の火薬を湿気から守るためのものであった。砲兵紙には厚砲兵紙と薄砲兵紙があり、それぞれ2尺7分×2尺5寸7分、1尺4寸7分×2尺5寸7分であった。この紙は漉き易い大きさ、厚さであったため、手習の紙としてもってこいであったと言われている。この砲兵紙、気球紙生産の始まる以前から小川町で漉かれており、年間生産枚数は20万枚ともいわれ、これもまた下小川地区において多く生産された。

<擬革原紙>

 この擬革原紙は文字通り皮革の代用品であり、皮の代用品と言うことで防寒具の芯、靴、さらには防毒マスクの材料と様々な用途に使われた。この紙も下小川地区で多く生産され、3尺3寸四方の特厚のものであった。その特殊な大きさ、厚さから漉く人は数十人に限られていたという。軍部の指令では楮100%の紙ということであったが実際にはパルプの混入が確認されている。

<その他>

 これら以外にも和紙は戦争の道具として、また様々な品が不足した戦時下の生活を支える上での代用品として生産された。

 ・落下傘紙
 ・軍帽
 ・砲弾
 ・パン紙(乾パンの包装紙)
 ・靴
 ・座布団
 ・ランドセル
 ・雨合羽

 このように和紙が様々なものに使われていたことを見ると、当時の日本の物質的困窮を伺うことができる。
 

6、戦争が小川和紙にもたらしたも
   皮肉なことではある明治以降減少の一途をたどり、450件程度に落ち込んだ小川町の漉き屋は戦時下において600件に迫るまで再興した。また戦時下の様々な需要は紙すきの技術を進歩させたと言う者もいる。

 さらに戦後、物が不足した時代においても生活代用品としての和紙の需要があり、戦争が無ければ小川町の和紙の歴史は大きく変わっていたのかもしれない。

 とはいえ、和紙が戦争の道具として利用され、殺傷の道具に利用されたことに変わりは無い。平和を謳歌している現代、和紙と言うおよそ兵器とは結びつかないように思われるものまでもが戦争に利用された時代があったことを、決して忘れてはならないと思う。 
 

お願い
 

 このページの内容は一般開架書籍からの資料を参考にしております。
 本件(風船爆弾)について、当工房は生産現場となっておらず、工房に参考資料以上の情報がないこと、当時の事情を知る者が高齢化し、通常の会話も含め受け答えができないこと等の事情により
取材・調査は、お断りさせていただいております。
 本件に関するお問い合わせは小川町教育委員会へお願いいたします。  

 

 

 当サイトは「有限会社久保製紙 紙すきの村」のサイトです。
サイト内にある記事・映像・写真の無断転載はお断りしております。
Copyright (C) 2008 有限会社久保製紙. All Rights Reserved

 
inserted by FC2 system