説1について、最近では支持する人はほとんどいません。
まず、和紙の銘柄として後世にまで名を残すような「細川」という姓の人間が実在していたが確認でいません。この他にも多くの疑問があります。
また、「細川」が屋号であれば細川紙発祥の家として語り継がれなかったのか。細川氏が他地方の人であれば、なぜ小川以外の和紙の産地に「細川紙」を伝え
なかったのか、「細川紙」が存在しないのか。といった疑問もあります。
以上の理由から、この説は細川紙に対する意識がまだ高くなかった時代に広まった説だと思われます。
説2についてですが、ここで言う「細川村」とは高野山麓の村でかつては和紙の産地であったことが知られています。
しかし、この説も説1同様の疑問が残ります。特に、「紙の名称として定着するほどの製紙技術」が細川村の仏僧にあったとすれば、「なぜ、小川町にだけその名称が残ったのか」、また、「その製法とはいったいどのようなものか、それ以前の製法との違い」が分かりません。
では、説3について。当工房ではこの説を支持しています。
この説の「小川の紙と細川村の紙の類似性」について現在では知ることはできません。しかし、この説において重要なことは「本当に似ていた」かよりも「似ていることにした」ことにあると考え
ています。つまり、小川が紙の大消費地江戸に近く、小川和紙の存在を東京の小規模問屋、小売店や消費者に知られたくなかった
大規模な問屋が、小川の紙を細川村の紙と偽って売ったことに由来する、と考えています。
この点を踏まえて説3を整理すると以下のようになります。
@もともと現在の小川町付近は和紙の産地であった。
A江戸時代中期に入り、江戸庶民の生活が安定し一般消費者の間でも紙の需要は拡大した。同時に漉屋(製造元)、産地(地方)問屋、江戸の問屋、小売店、消費者という流通経路が確立された。また、江戸と上州(現群馬県)を結び現小川町を通る「川越街道(川越児玉往還)」が整備された。
B小川と江戸が約70qと近く、流通経路の一部を省略した販売形態が可能になりかねない状況=一部の問屋
にとって仕事が成り立たなくなる可能性が生まれた。そのため、「小川」という和紙の産地を表に出したくない人々がうまれた。
C細川村の紙と小川の紙が似ていた。あるいは似ている、ということにし、小川の紙を細川村の紙として流通させた。
D本家の細川村の和紙は衰退し、なくなった一方で小川の紙を「細川紙」と呼ぶ習慣は残った。
当工房ではこの説3が、時代背景、紙屋をめぐる力関係から妥当な由来であると考えております。
以上、「細川紙」の由来については諸説ありますが、特に証明する書面があるわけでもありませんので、断定はできません。ただ言えることは、この「細川紙」が全国的にも非常に珍しい状況下で生まれた名称であるということです。もし興味がありましたら、皆さんも調べてみて
はいかがでしょうか。
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